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第11回「15+∞展」(2001年2月9日 〜 14日)によせて



  「晴朗な声を期待して」
 
小川 稔  

 


 今回、ここに作品を展示した作家達は、私自身もそうなのだが、美術に関わりあうようになって20年ほどを過ごしたことになるであろう。さて思いがけなく素っ気ない2001年1月1日零時の時報が鳴った今、20世紀最後のこの時期をどのように振り返ったらよいのだろうか。また、この時代に何かしらの意味があったのなら、どのように将来記述されることになるのだろうか。20年という時間が流れた以上、日本の現代美術の世界でも何か教訓を残すほどの内実の変化があったと信じたいところだろう。整理がつかないまま漠然とあれこれの事が浮かび上がる。パブロ・ピカソは1973年に没してカリスマの名はもはやなく、アメリカの50年代の画家達やその後のポップアーティストの名がよく話題にのぼった。 外国の都市といえば大分前からニューヨークに代わっていたが、情報は依然、わずかな雑誌記事を通じてもたらされていたのであり。その頃、抽象表現主義の画家の誰であれ、代表的な作品を東京で見た覚えは私にはない。学園での闘争は少し前に終わっていて、熱の引いた空虚な空気のなかで各々の模索が始まり、そしてその後まもなく、ここに集まった作家たちの最初の作品の発表が個展、グループ展でなされたのではないかと思う。上野の東京美術館が新築され体育館のようなダダ広い空間が印象的だったのもこの頃これに続き、各地で公立美術館が建設され、近代美術館の名が掲げられていた。街でも現代美術専門の企画、貸し画廊が増え、毎週月曜日のささやかなオープニングセレモニーに人が集まった。一方では美術品の流通が一般の話題ともなり、印象派の絵画が驚くべき価格で購入され日本にもたらされたことが思い出される。  しかしわずか20年後の今日どうであろう、各地の公立私立の美術館は深刻な財政危機に直面し、運営に深刻な影響が出始めている。デパート付属の美術館はほぼすべてが廃止された。国立美術館も今年より独立法人化へのあらたな進路を強いられ、館員たちは予測できない将来に暗澹たる思いでいると聞く。銀座の現代美術の代表的な画廊はこの1,2年のうちに次々と姿を消した。外国からもたらされた近現代の有名絵画は不良債権の代価として元の国へ、何分の一かの値段で買い戻され、もはや国内には残っていない。このように新世紀を迎えようとはあのころ誰が予想しただろう。何が変わったというのだろう。

 おそらく20世紀は多くの歴史が記述された時代として記憶されるのではないか。非常に多くの年代期、年譜が綴られ、ありとあらゆる種類の長短の時間の経過が記録され、通説化、物語化され、商品となり流通し、そしていうまでもなく消費された。週末のTVショーはすでに一週間分の事件の寸評に忙しい。
 美術においても、過去から同時代までの多くの芸術家の人生が語られ、数えきれないほどの天才の物語が生まれた。たとえば、印象派に発したあらたな絵画の革新が現代絵画を導いたと言う物語があきれるほど流通し、繰り返されたことを誰もが思い出すころだろう。通俗的な解説は一方で感情を拝した自律的な造型の正しさを説き、他方、若くして不遇のうちに死んだ芸術家の悲劇を説いた。あるいはカメレオンのように一生変化を続ける芸術家を勇気ある冒険者として称え、だから真の芸術は同時代にはけして理解されないのだと教訓を述べる。こうして一般大衆の生活の中にも芸術家の人生は関心事として入り込み、上野の美術館には幾重もの人垣ができることになった。商品としての芸術家の人生。そして抽出された教訓は未来にまで投影され、テクノロジーを駆使した楽観的、総合的未来芸術が盛んに語られている。このように物語化された歴史が過去から未来までをモンスターのように食い尽くすようになったのが前世紀だった。
 しかし、私達はこの20年間に肌身に感じた経験から、あまりにも分りやすく説明される道理の欺瞞を知ったのではないだろうか。砂時計のようにただ直線的に進む時間の変化などない。経過した時間に等間隔の刻みをつけてその変化の必然を説いたり、その先を予見者のように語ることなどどうしてできようか。
 そうではなく、線ではなく、ときにねっとりとした液体のように、ときに泡のように経過に、かたく、柔らかく、あるいは痙攣する光のように時間は続いている。運動としての時間は私たちの肉体の外を流れるのではなく、私達の内部を浸しているのだ。美術の仕事もこうした時間の認識と無関係ではなかろう。生きている個人の身体を浸透する、他人の記述ではないが実在感のある時間への応答として、作品は作られているはず。かつての形式、教条を第一とする時代と今は違う。言葉によって理解されるものを超えた世界と自由に交流することを楽しむ若き美術家が増えている。

 そのことと関連して昨年末から今年の初めにかけて板橋区立美術館で開かれた「秋田蘭画展」で見た、ある画家の作品についてぜひ書いておきたい。明治以降の本格的な西洋美術の移入に先駆け、18世紀後期、若き秋田藩士を中心とした西洋絵画(まだ油彩画ではない)学習グループがあった。江戸の平賀源内を介し、オランダの書籍などから得た西洋絵画の知識が断片的にもたらされたのだった。このグループの代表的な画家の一人が小田野直武である。江戸期の洋風画といえば、遠近法、陰影法にまだ不慣れな一種素朴な絵画(直線的な時間の言い方だ)、あるいは伝統的な東洋画と西洋画の折衷的な絵画のイメージでとらえられるのではないだろうか。しかい今回、直武の《鷲図》や《推薦に難点、小倉図》等を始めとして見て感じたのはまったく別のことだった。一言で言えば、すでに成熟した、絵画の孤独のようなものがそこに宿っているのだ。30歳で死んだ直武だが、このことに地域や時代の差はない。どんな時代にも、たった一人で裸の「もの」と対峙し交渉を重ねる画家や彫刻家には神秘的ともいうべき一種の化学変化が訪れる瞬間があるのだろう。直武は東洋の規範から離れ西洋絵画の方法をたよりに事前の外形を写すことから始めたのだが、その結果として短期間のうちに、誰も経験したことのない、自然の美とはまったく別の境地にたどり着いたといえるだろう。芸術家がほかならぬ自分のために見出した場所に、自分の足で静かに立っているのが分る。小さいが明晰な声を聞いたような気がした。そしてこのささやかな発見によって私はまた別の出会いを、今回の16名の作家たちの展覧会に期待している。あの晴朗な沈殿物のように静かに降りてくる声が聴かれることを。 おきたい。明治以降の本格的な西洋美術の移入に先駆け、18世紀後期、若き秋田藩士を中心とした西洋絵画(まだ油彩画ではない)学習グループがあった。江戸の平賀源内を介し、オランダの書籍などから得た西洋絵画の知識が断片的にもたらされたのだった。このグループの代表的な画家の一人が小田野直武である。江戸期の洋風画といえば、遠近法、陰影法にまだ不慣れな一種素朴な絵画(直線的な時間の言い方だ)、あるいは伝統的な東洋画と西洋画の折衷的な絵画のイメージでとらえられるのではないだろうか。しかい今回、直武の《鷲図》や《推薦に難点、小倉図》等を始めとして見て感じたのはまったく別のことだった。一言で言えば、すでに成熟した、絵画の孤独のようなものがそこに宿っているのだ。30歳で死んだ直武だが、このことに地域や時代の差はない。どんな時代にも、たった一人で裸の「もの」と対峙し交渉を重ねる画家や彫刻家には神秘的ともいうべき一種の化学変化が訪れる瞬間があるのだろう。直武は東洋の規範から離れ西洋絵画の方法をたよりに事前の外形を写すことから始めたのだが、その結果として短期間のうちに、誰も経験したことのない、自然の美とはまったく別の境地にたどり着いたといえるだろう。芸術家がほかならぬ自分のために見出した場所に、自分の足で静かに立っているのが分る。小さいが明晰な声を聞いたような気がした。そしてこのささやかな発見によって私はまた別の出会いを、今回の16名の作家たちの展覧会に期待している。
 あの晴朗な沈殿物のように静かに降りてくる声が聴かれることを。


(全 文)

 
 
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